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富有柿がピューレになるまで

田主丸に富有柿が生産されるようになったのは

長い長い歴史からお話しなければなりません。

山を流れるいく筋もの小さな谷水は巨瀬川へ、

そして九州一の大河へと流れ込みます。

今でこそ豊かな穀倉地帯ですが、340年前は

筑後川がありながら水位が低くて利用する事が

できず、平野の大部分は藪や竹におおわれ、

水田といえば限られた低湿地だけで、

開墾されたわずかな畑作を主とした農業が、

営まれているにすぎませんでした。

筑後川の水は眺めるだけで利用できないものだろうか。

寛文31663年、夏の暑さが厳しく日照り続きで、

ついには作物が日焼けし、農民の生活は実に苦しく、

先祖から受け継いだ土地を泣く泣く手放し、他の土地に

移る人さえいました。

農民のこのひどい有様に心を痛めた5人の庄屋さん達が

立ち上がり、この筑後川の水を引く事を思いつき

奉行所に願い出ました。

「良い思いつきではあるが、失敗した場合は磔の刑に処する。

それで不服はないな。」

と念を押されて難工事が始まりました。

寛文41月に始まった工事は延4万人の農民の手で3月に完成し、

このおかげで、この地方は水に恵まれた豊かな穀倉地帯と

なっていったのです。

(五庄屋伝説として今尚伝えられています。)

しかし一方で数倍にも課税された農民らの生活は

苦しくなるばかりで、90年後には享保、そして宝暦と

全国史上に残る農民一揆が起こりました。

元禄16881704、殺伐とした時代に中国から薩摩に

伝わった櫨は、その実が蝋の原料として現金になる

有望な作物となる事がわかり、藩は財政建て直しの為、

荒地や曽根(谷川から流れでる水路わきの堤防)にも

櫨の栽培か奨励されます。

「草木数多しといへども世間財用に便あること

いまだ此木より盛なるはなし」

と「接ぎ木」などの栽培方法を伝授する庄屋が居たので、

その技術はツツジ、桑へと広がっていきます。

平和な時代が続く江戸時代、鉢植にして花を楽しんだり、

お花見などの物見遊山へ出かける事も盛んになり、

江戸中期には植木苗木を生業とする農家が現れました。

久留米藩主の有馬頼咸が殖産政策として櫨、桐、桑の栽培を

奨励し、藩の財政は潤ってきます。

「イカニモ幕府ノ政策ニアエグ藩政ト天災ト人災ニ

サイナマレル農民ガイキンガ為ニ撰ンダ道デアッタ」、

これは植木苗木発祥の地の碑です。

技術が生まれた背景の農民の苦しみが伝わってきます。

こうした先人のお働きがあったおかげで、明治時代に

岐阜から富有柿を苗木職人が持帰り、

できた苗を山辺の農家が植えたのが始まりで、

扇状地の砂礫質で水はけが良い山部地区が果樹に最適

である事を物語っています。

山辺の古い柿園は、

「そんな石や岩だらけの松林をどうするとの。」

と笑われる中、手開墾で切り開かれたおかげで、

耳納連山の山裾に広がる柿若葉、柿紅葉、富有柿があるのです。

そしてピューレになっていくのは・・・・

人々は形の良いもにだけ目を向けて、又、外国産の果物が出回っ

てきた事もあり、柿の消費が年々少なくなっていきました。

規格外のものも生かさないと、後継者すら育ってこない

と真剣に取り組んだ柿農家と地元の110年続く醤油やさん、

これに官の応援が加わって柿以外何も加えない柿ピューレが

誕生しました。

今のこの耳納連山、そして四季の彩りを楽しめる山裾の風景は、

生キンガ為ノ人々ノ手ニ汗ニギル厳しい日々の働きがあって

生まれた事は、守って下さる人々があっての事です。

豊かな水の恩恵を受け、酒倉が残り、農業が代を重ねている

その陰には、山の木々を共同で守り川の水にはかみ宿ると

信じる人々の存在があります。耳納連山の恩恵を受けている

浮羽町、吉井町、田主丸町は「水道料金のない町」として、

今尚続いています。

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